広辞苑大学レポート。

広辞苑大学レポート | 2018年1月12日

壁を超えることば

養老 孟司 (ようろう たけし)

東京大学名誉教授

 

2003年、400万部を超えるベストセラーとなった『バカの壁』。たとえ、読んだことがなくても聞いたことくらいある人がほとんどなのではないだろうか。そんな名著の著者である養老孟司先生が講師をするのは、「壁を超えることば」。

広辞苑第7版を記念して開講されたこの広辞苑大学では、様々な著名人がひとつずつテーマを掲げて講義を担当しているが、開講セレモニー後のトップバッターを務めたのが養老先生だ。さすが知名度も期待度も高いのだろう、広い体育館にもかかわらず、受講生の席はほとんど埋まっていた。

辞書とは「スタンダード」を決めることだ。

養老先生が最初に話し始めたのは、辞書に載っていることばとは、「スタンダード」を決めるものなのだという話だ。

養老先生の元々のご専門は解剖学。解剖学には、国際解剖学の「用語集」がある。ラテン語でできている。しかも、辞書と違って説明がないんだそうだ。説明をつけると、それだけで大変なけんかになるんだろう。国際解剖学用語ができるまでは、ドイツではドイツ語で、フランスではフランス語でやっていた。それでは困る国が多く出てきて、ラテン語なら公平だ、ということで定められたのだという。

解剖学もそうだし、分類学もそうだが、新しく言葉を作っていく分野がある。分野が広がってくるとどんどん言葉が出来てくる。それに対して、広辞苑に代用されるような辞書に入っているのは、私たちが普通にことばと思っている、すなわち既製のことば。そんなすでに出来上がっている言葉は、できるだけ大事にしたい、と養老先生。新しく言葉を作っている分野にいるからこそ、ことばを変えないで欲しいと思うとのこと。

a=bならばb=a、がわかるのは人間だけ。

ところでこの「ことば」。使いこなせるのは人間だけだ。犬も鳥も猫も魚も、人間のことばは理解できない。何故なんだろう。

それは「動物には『違う』という能力だけがあって、『同じ』という能力がないからなんです」と養老先生は説明する。人間には、「同じ」という人間にしかない能力があるのだ。

たとえば「りんご」ということば。これは、文字でりんごと書いてあっても、ことばでりんごと聞いても、点字を触っても、わかる。視覚、聴覚、触覚と別々の器官から受け取った刺激でも、私たちは頭の中に同じくりんごを描くことができるのだ。あるいは、同じ文字のりんごでも、筆者が書いた文字と武田双雲先生が書いた文字とパソコン上で打った文字は全く異なるが、私たちはすべて同じりんごだとわかる。高い声で聞いたりんごも、とぎれとぎれに聞いたりんごも、同じ。これが「同じ」の能力だ。

動物は、これができない。別の器官で受け取った刺激は違うものであるし、文字は形が違えば別々のものだと認識する。高い音と低い音はまるで別物で、「りんご」に意味を持たせない。

だから私たちは「a=b」と「b=a」を同じものだと理解することができるが、動物には全く違うものだと認識されている。中国の有名な故事成語、「朝三暮四」の例もわかりやすい。猿の餌を朝3つ夜4つの場合サルたちは嫌だと言ったが、朝4つ夜3つならいいと言った。これは「サルたちが朝もらえる目先の量にとらわれて馬鹿だなぁ」という話ではない。「人間にとっては合計7つで同じだが、猿にとっては朝と夜の個数が違えば全く違う現象に感じられる」という話なのだ。

りんごと梨は「同じ」にも「違う」にもできる。

さらにこの「同じ」「違う」には、こんなことも言える。

大きなりんごも、小さなりんごも、同じく「りんご」であると私たちは認識できる。大きさや形が違っても、りんごはりんごだ。

20世紀梨と豊水や幸水は色が異なるけど、同じ「梨」だし、洋梨は形が全く異なるけれど、梨だ。

りんごと梨は形が似ているけれど、これはりんごと梨であって、「違う」とわかる。

でも、りんごも梨も双方を「同じ」に見ると「果物」というものに見ることができる。

人間は「同じ」と「違う」、両方の能力を持っている。だからこそ、辞書のような「ことばのスタンダード」が成立するのだ。だってそうだろう。スーパーで目の前に並ぶりんご、大きさや色によって全て違うりんごだと認識していたら、辞書に載っているりんごに対し「これはどのりんごのことを言っているの?」という話になってしまう。辞書に載っているのは、どれでもないけれども、どれでもあるりんご。我々の頭のなかにあるりんごである。

「aとthe」は「がとは」。

ここで少し、「頭のなかのりんご」の話をしよう。

養老先生は「頭のなかにあるりんごは『an apple』、特定のりんごを指すときは『the apple』って言うでしょう。冠詞です。これは日本語だと理解するのが難しいんですが。『あるところにおじいさんとおばあさんがいました』は誰でもないおじいさんとおばあさんのことを言っているんですよね。一方で『おじいさんは山へ芝刈りに』は芝刈りに行く特定のおじいさんを指している。これが“a”と“the”の違いであるし、日本語にすると助詞の違いになりますよね。前者は『おじいさんとおばあさんが』で後者は『おじいさんは』になる。“a”と“the”のちがいは、“が”と“は”のちがいなんです」と説明する。

英語だと「aとthe」日本語なら「がとは」。で、難しいのが漢文なのだ。

漢文の白文には、冠詞も助詞もない(なんなら時制もわからない)。そこにルーツのある中国語は、意味を広くとれる文や会話が多く、コミュニケーションが難しいのだというのが養老先生の見解だ。

だから中国の過去の文献を読もうと思ったら、ただその文章を読んでもわからないことが多い。前提となる資料をひと通り知っていなければならなかったり、過去その文献に対して存在する解釈をひたすら読まなければならなかったりする。それが非常に大変だったのが、過去中国に存在した「科挙」なのだ(清の時代くらいまであったはず)。膨大な知識を問われる難易度の高い試験として知られているやつである。

辞書をひく行為は、

つねにスタンダードに立ち返る行為。

同じ」に話を戻そう。先のように「同じ」ができるから、辞書のような「スタンダード」は成り立つのである。「この辞書に書いてあるりんごは、どのりんごのことだろう?」なんて言っていたら辞書は機能できない。大きいりんごも小さいりんごも同じと見るから、「りんご」の項目を辞書でひくことができるのだ。

「他人事」は正しくは「ひとごと」と読むけれど、会話の中で使うときは漢字が伝わりやすいように「たにんごと」と言うこともある(「私立」を「わたくしりつ」って言ったりもするよね)。音声でも同じなのだ。「ひとごと」も「たにんごと」も「他人事」と同じであると認識できるから「他人事」は意味として存在できる。人間ならではの能力が、辞書というスタンダードな存在を成立させているのだ。

だからこそ養老先生は、「あんまり辞書の意味をいじくるのは、じつは迷惑ですよね」とチクリと言う。なぜなら、辞書の意味が変わるとスタンダードがコロコロ変わるから。ことばは新しく生まれるものであるし、使われ方が変わるものではあるが、変わりすぎるとそれはスタンダードではないのだ(変わることが多すぎると、スタンダードなりんごがたくさん存在するので、それは結局「どのりんご?」という話になってしまうよね)。

辞書のことばはスタンダードであり、そこに載っているのは既製のことば。変化させて使う面白みもあるけれども、ある程度既製品がどんなものかを知り、既製のものであることを前提にどう料理していくか、ということも大切なのだと、先生は冒頭での話を繰り返す。そうして養老先生は「だからね、まあ広辞苑って重いからひくだけで体力が要るんですけど、あまりサボらずちゃんといちいち辞書を引くっていうのは、大事なんですよ」と締めくくった。

Text:山縣杏 / Photo:鈴木渉、他

 

全編動画レポートもお楽しみください。

養老 孟司 (ようろう たけし) (東京大学名誉教授)

1937年神奈川鎌倉生まれ。1962年東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入り、以後解剖学を専攻、1981年に東京大学医学部教授に就任し、その後同大学の名誉教授となる。著書に『からだの見方』、『身体の文学史』そして『バカの壁』等多数ある。

受講のお申込み・講座のご案内はこちら 受講のお申込み・講座のご案内はこちら